2016年12月 2日 (金)

感動の源泉を求めて ~『この世界の片隅に』~

「草摘みよったんか」「はあ、晩のおかずにしよう思うて」
「周作さん、ここらのたんぽぽはみな白いんですね」「ほうじゃが江波のんはちがうんか? お、黄色のんもあるで、ほれ」「あっ、摘まんでください。遠くから来とってかも知れんし・・・」
 
嫁ぎ先での暮らしに悩んでいるとき(頭に「海軍の機密」までこしらえて)、ふと目にしたタンポポの綿毛をふうっと飛ばす。すると、周作が勤め先から家のほうへ登ってくるのが見える。風に乗ったタンポポの種は夫に向かって落ちていく。。。

公開中の映画『この世界の片隅に』の一場面。


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この映画は確かに感動的で、事実自分も見るたび(わりと出だしからずっと)涙が勝手に流れてきてとちゅうで席を立とうかというほどなんだけれども、実はこの映画はただ目を腫らして「あー泣けたわー」と言ってるだけでは惜しすぎるシロモノなわけです。
ぜひとも一度はそういう感情をいったん脇に置いといて(難しいけど)、冷徹に目に映るワンシーンワンシーンごとに頭に刻み付け、できたら後にアタマから分析するという作業をする価値のある映画だと強く思ってましたので、こうして超久しぶり衝動的にブログなぞ更新しているわけです。
ほかに書くとこないもので・・・

※ちなみに以下は、映画で観たものと原作漫画で読んだものが判然としない部分
があることをお断りしておきます。もう何が何だか自分でもよくわからない状態です





綿毛がふんわり風にまかせて飛んでゆく。
あまりにもぼんやり遠くまで飛んだせいか、気づけば近くに自分の色の花は咲いてないけど、なんとか世界の片隅に居場所を見つけたと考える。
だけどほんとうにそこは、めいっぱい根っこを張れる場所なんだろうか。

「誰でもこの世界でそうそう居場所は無うなりやせんよ」




このとんでもない映画についてすでにあれこれ言われてること、ロケハンや時代考証の徹底っぷり、登場人物たちの実在感と「今・ここ」への圧倒的地続き感、あの『野火』の塚本晋也監督に「空襲のシーンはこれまで見てきたどの映画よりリアル。ついにそれがどういうものであったかがわかった」とまで言わしめるほどの戦争描写、主役すずの声を当てている女優・のんの信じがたいほどの迫真ぶり(ほとんどのんさんとすずさんの相互憑依状態)、コトリンゴの反則な歌声と「あの曲」の圧倒的催涙爆弾効果、等々
・・・は、たぶんこれからもあちこちいろんなところで語られていくだろうし、それはそれで超重要だけれども、せっかくなのでここではあまり言われないかもしれない、ちょっと「小(こ)まい」、でも神経の行き届いた演出から2つだけ採り上げて、この映画の圧倒的に感動的な徹底ぶりのごく一部を自分なりに検証してみたいと思ったのです、こんな気持ちになる映画はあまりないので。
これを書くことでこの映画を観たときの「感動の源泉」にたどりつけるとは全く思わないけれども。


ちなみに、以下は私が「そーかなー」とぼんやり感じただけですの話ですので、「ぜったいそうだ」というふうに誤解なさらぬよう。。。

 


花と着物演出

一対の男女の間の心の機微と運命を描くのに、花と着物の柄が印象的に使われていますね。ひとつはツバキ、もうひとつはリンドウ。


  A.ツバキ演出

これはすずと、幼なじみ・水原哲との間の花。
小6。すずが哲の代わりに課題の絵(「波のウサギ」の絵)を描いてあげると、哲はさりげなくすずに一輪の赤いツバキの花を贈る。
これは明らかに哲からすずへの子どもらしくいじらしい愛の告白なわけだけれども、いくらぼんやりなすずでもそれになんとなく気づくという場面。


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後年、夫となる周作との婚礼の席につくすずが纏うのは、ツバキ柄が鮮やかにほどこされた着物。しかもこの直前数年ぶりにふたりはばったり会っているわけで。すずは結婚の相手がぼんやり水原だと思ってる。どんなぼんやりだ(笑)
ここは、幼なじみへの淡い思いを抱いたまま、ほとんど何も知らない男のもとへ嫁ぐ数えで19の女という鬼の演出なわけです。
 
「困ったねえ」

とうぜんそんなことに周作は気づかないし、後で気づく瞬間も出てこない。ただしたった一日、初対面の周作と水原がじっくり言葉を交わすシーンのあと、映画のひとつのクライマックスが訪れます。
幼なじみのふたりが狭い部屋に「閉じ込められて」(しかも夫に)、ふだんのんびりしたすずの自分でも意識しなかったある「閉じ込められた」感情がぐあっと爆発する、あそこは、たぶん誰しもシャワー中に思い出したくないことを思い出してしまったときにやるあの耳をふさいで「聞こえない聞こえない あああああ」・・・というあれ、あんなふうなシーンなわけですけれども。

あの、夫がつけてくれた行火(カイロ)の入れられた布団を別の男と共有するという18禁エロティシズム(←子どももたくさん観てます)。
しかもここ、原作漫画よく読むと水原に抱きすくめられたすずはリンドウ柄の茶碗に一瞬目を向けているんですよね。これ一体・・・?

・・・で、そのツバキの着物がその後どういう道をたどるか。

ここは実は2回観ても気づかず、宇多丸師匠の「ムービーウォッチメン」で「ハッ!」と思って3度目で気づいたんですが(←どっちが鈍感)。
あまりにもさらっとしすぎていて気づかないという、なんという鬼演出x100。

宇多丸ムービーウォッチメン
映画「この世界の片隅に」

あそこですずは完全に今まで無意識的に囚われてきた水原的な「この世界」から脱却したのでしょう、というかそうしようと決意したのでしょうね。
水原は生前、周作の家の納屋ですずに「お前だけはこの世界でふつうでおってくれ」と言っていましたね。撃破された水原の搭乗していた艦船をバックに、死んだ(はずの)水原に向かってすずは最後のあいさつをします。

いや、ほんとにそうか? ただ単に、ツバキの花に象徴される「少女としての自分」への別れのつもりだっただけなのかも。うーん・・・。



もうひとつ、これは映画ではほとんど端折られているのでさらっと。

  B.リンドウ演出

リンドウ、これは、周作とリンに関係する花。
このリンさん(まあいわゆる遊女です)、すずが小さいころお祖母さんの家で出会った「座敷わらし」ですよね(「いっぺん親切してもろうて、赤いところ食べたねえ、遠い昔じゃねえ」etc...)。そのリンが着ていた着物の柄が、リンドウ。リンドウだからリンさんなんでしょうか。

そのリンの着物の柄と納屋の二階に転がっていた茶碗の柄の一致。
「嫁に来てくれる人にやろう思うて昔買うとった物じゃ」。ぶっきらぼうな周作の言葉にすずはいったんは屈託ない笑顔でそれを受け取るが、竹やりをこしらえるため竹藪に入った時、そこにきれいなリンドウが咲いているのを見て茶碗とリンの着物の柄の一致に思い至る。。。


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「ほいでもなんで、知らんでええことかどうかは、知ってしまうまで判らんのかねえ」

すずが遊郭でリンに会えなかった場面で実はほんの一瞬ツバキとリンドウが遭遇するという戦慄的シーンがあるですが、ここはまあいいか。

終戦後、遊郭に落ちていたのは割れたリンドウ柄の茶碗でした。


というわけで、二組の男女の関係が花と着物(と茶碗)という演出で巧みに関係づけられているわけですね。

では、肝心のすずと周作は何の花で関係づけられているのでしょう。
やはり、タンポポかな・・・

「過ぎた事
、選ばんかった道、みな覚めた夢と変わりやせんな」





食事演出

この映画、実に全編にわたって食事のシーンが多い。というか宇多丸師匠に言わせれば「ほとんど物語の根幹」です。

食事。大文字の「この世界」をメインに据える大方の映画ではおそらく脇に追いやられるか完全に無視される案件ですが、食べるだけでなく、食事を煮炊きするために薪をくべるから始まって(あ、その前にコクバ集めもある)、あれこれ工夫して料理をする、何を誰とどんなふうに食べるか、ということを描き出すために多大な神経を費やしている。「食べる」という一連の動作が、「この世界の片隅」を端的に象徴しているんですね。
何を誰とどんなふうに食べるか、あるいは時間経過における食卓の質と量の変化を追っていくだけで、「この世界」の状況が手に取るように理解できるように巧みに仕組まれているのです。

両家のつつましい婚礼の席で、周作はじっと押し黙ったまま料理に手を付けない(「フード理論 第2原則(※)」に当てはめると、周作はまだこの段階では「正体不明者」なわけです、嫁にとっても観客にとっても)。

  ※映画におけるフード三原則(Ⓒ福田理香先生)
     1 善人は、フードをうまそうに食べる
     2 正体不明者は、フードを食べない
     3 悪人は、フードを祖末に扱う


初夜
の部屋、「新(にい)な傘」の柄で、軒に吊るしてあった干し柿をとって食べ合うというギャグ。ここに至ってはじめてふたりはまっさらな布団の上でほんの少し笑顔を見せあいます(周作が「口から」ものを食べたことに驚くすず)。
この「
ふたりだけでいっしょに同じものを食べることが、夫婦が夫婦となったシルシなんですね。(そのために「新な傘云々」が持ち出されるw)
次の朝からすずはごくごく当たり前のように夫とその家族のためのご飯を作り始めます。

19年5月、すずは道ばたの草をご飯の足しにし始める。
ハコベ、スギナ、タンポポ、カタバミ、タネツケバナ、スミレ...

昼は蒸したさつま芋と刻んだスギナを小麦粉で搗き混ぜて平らに丸めたまんじゅう(干せば保存食にもなる)。

晩はハコベをふんだんに使ったじゃが芋入り雑炊、たんぽぽの根と葉を混ぜて甘辛く煮たおから、大根の皮まで使ってカタバミを混ぜた塩サラダ、梅干しのたねの出汁で煮たいわしの干物の煮つけ。
翌朝は前日の煮魚の汁に花付きのスミレを加えた味噌汁に、炒った米を3倍の水で前日の夜からじっくり炊き上げた「楠公飯」(おいしくない)・・・

とても小気味よいリズム感ですずがあくまで楽しそうに料理を作ってゆくとても印象的でたぶんみんな大好きになるシーンです。


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日に日に悪化する戦況の中、食べるものが目に見える早さで手に入りにくくなってゆくのと対照的に、どうすれば日々の生活を楽しめるかの実験をしているよう。
いや、ここでのすずさんはほんとうに幸せそうに見える。暴力的な「この世界」への無意識的なレジスタンス運動。

すわご懐妊か、と朝ふたり分のご飯をいただくが、夜ご飯は「おかゆさん」の上澄みだけという、ほとんど言葉を介さないスマートなフード演出!
リンさんに描いてあげたすいか、はっか糖、わらび餅、あいすくりいむ(「うえはー」付き)、これらは文字どおり「絵に描いた餅」なわけだけれど、同時に「いずれあり得るかもしれない望ましい将来の生活」の象徴。
いずれ絵どころかそれを描く手段さえ失われることになるのだけれども・・・。
 
あと、芋がいいあんばいに焼けたのですずさんどうぞ、という終盤のあそこ。あれもいろんな意味があんだろうなーきっと。もはやこの段階では思考力が低下してる笑



この映画、いま見てきたような花や着物の柄や食事演出だけでなく、たとえば灯火演出、絵画演出、昆虫・鳥演出、化粧・髪型演出、名前演出(サン・円・周・径)等々、「あれっていったい」と考えれば考えるほど頭がパンクするほどの情報量で、こんなことをそれこそ世界の隅から隅まで拾い上げていったらきりがないほど。
『マッドマックス 怒りのデスロード』ばりのテンポのよさ(映画評論家・町山智浩)」に惑わされてつい置いてけぼりにされがちだけど、何度も何度も何度も見返す価値のある映画なわけです。

   「ただでさえうちはぼーっとしとるけえ」




・・・というわけで、とてもこれだけで「感動の源泉」が語られたとは到底思えないですが、「この世界の片隅」で起きている小(こ)まくて些細な日常のあれやこれやをきめ細かく丹念に描き出すことによってしか、政治だ国家だ経済だ戦争だといった「この世界」に抗うすべはないのだ、そう作り手は確信しているかのようなのです。


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「『あまちゃん』が
3月11日に向かって突き進む話であるなら、『この世界の片隅に』は8月6日というタイムリミットに向かっていやおうなく突き進む話。それを、見ている側だけが知っているというサスペンス」(町山智浩)。
ほわ~んのほほ~んとして「好きな絵を描いてさえいれば幸せ」なすずさんに、終戦のときあんなふうに慟哭させるなんてまったくなんという鬼畜な映画なんだろう。
でも、こう書くと戦争の怖さが前面に出た映画のように思われるかもしれないが、ぜんぜんそうではなく、むしろ全編とおして笑えるってところがまたすごいところです。

近くに新型爆弾を投下された日でさえ、人びとのあいだには晩ご飯を囲む団欒がありました。
終戦の日、男たちの戦争の後始末をする空しい煙と並行して、家々から食事の煙があがる。それは、「この世界の片隅」から「この世界」への優雅で強靭な抵抗です。


『あまちゃん』のアキが3.11後の希望を体現したように、『この世界の片隅に』のすずさんも、8月が終わり、9月が過ぎ、来年も再来年も10年後もきっと笑って過ごすでしょう。

「みんなが笑うて暮らせりゃええのにねえ」
「ほんまですねえ・・・」


思うにすずさん、まだ呉で91歳でお元気に暮らしてるんじゃなかろうか。ありゃー顔しながら。(≧∇≦;)アリャー



というわけで、ひとまず筆をおくことにしましょう、キリがないので。

ではでは、またまた。


・・・あ、そうだった。最初と最後に出てくるあの髭もじゃ妖怪、あれ、鬼ィちゃんですよね・・・?
あと、ここでは一回も出さなかったけど私がいちばん好きなキャラクターはお義姉さんです。もちろん


「ゴムひもを通したけえひとりでも着られよう、ゴムひもが寄せ集めで申し訳ないが」

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