2017年5月11日 (木)

勝手に魏志倭人伝(KGW) ③(終)  - 邪馬台国篇 -

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「卑弥呼と男弟」イメージ
佐賀県神崎郡吉野ヶ里町、吉野ヶ里遺跡北内郭「王の宮殿」より




邪馬台国  (所在地不明)

使者の報告書「(投馬国より)南へ、邪馬台国に至る。女王の都する所。水行で十日、陸行で一月。官に伊支馬があり、次官を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳鞮という。家は七万戸以上」
「その国はもと男子を王としていたが、7~80年後国が乱れ、何年も争いが続いた。そこで共に一女子を立てて王とした。名づけて卑弥呼という。鬼道とかいうよく分からない宗教につかえ、民をクラクラさせたりする。すでに高齢で夫は持たず、弟が政治を補佐する。王となってから彼女を見た者は少なく、千人の奴婢を侍らせ、ただ一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしている。宮室や楼観、城柵を厳かに設け、常に多くの兵が守衛する」
「その南に狗奴国があり、男子を王(卑弥弓呼=ヒミクコ。ヒコミコの誤りか)とする。その官に狗古智卑狗(クコチヒコ)がいる。女王に属さない」

邪馬台国はふつうに読めばヤマト国だ。ヤマトといえば畿内ヤマト(大和)国、今の奈良県東南部であることは動かない。今やヤマトは日本国全体を指したりする。戦艦大和、大和魂。男の子の名前なんかにもなってたり。もとは畿内の一小国の地名が、今や巨大な列島をまるっと表す大地名へと出世したのだ。
もとは今の行田あたりを指した「さきたま」が、今では超巨大メトロポリス・さいたまにまで出世したのと同じだ(←たぶんちがう)

箸墓という女王を葬った感の濃厚な最初期の超大型前方後円墳(墳長278m)もあるし、大発見の相次ぐ纏向遺跡こそが邪馬台国なのだという説には一理も二理もある気がしてくるのは、まあいかんともしがたい。

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ヤヤトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)の墓、通称箸墓古墳。去年1月。

ここが邪馬台国九州説の一番の泣き所だ。九州には残念ながらヤマトという大地名は残ってない(小地名ならいくつかあるけど弱い)。邪馬台国は畿内か九州か、というアンケートをとれば、おそらく9:1くらいで畿内と答えるのではないか。何しろ名前が一致するのだから。
事実、弥生時代関連の本など読んでいても、邪馬台国は畿内にあったということを自明で暗黙の前提としてかかっているものも少なくない。
が、纒向は初期ヤマト政権の大王たち(崇神・垂仁・景行)の都と考えるほうが自然ではないだろうか。

崇神は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、垂仁は纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、景行は纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)に居を営んだ、と『日本書紀』にある。磯城(しき)は纒向を含む地名であり、この3代の初期大王は纒向に縁の深い人物たちであったことは想像に難くない。

僕は、理由を挙げると長くなりすぎるので書かないが、邪馬台国は北九州のどこかにあったと思う。
では、どこか。


・・・といわけで、この日もレンタカー(ホンダの赤の軽)を駆って「あやしげな場所」をたどる旅に出た。

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吉野ヶ里遺跡入り口。
遺跡の地図見てたおじさん「めっちゃ広いな。まさに佐賀のディズニーランドやな


ほんとうならば、僕が邪馬台国の領域だと考える筑後川流域、有明海からの入り口にあたる柳川市あたりからたどりたかったのだけれど、時間の都合もあり吉野ヶ里からということにした。今まで来たことなかったし。

吉野ヶ里遺跡。1980年代後半からの発掘調査によって「すわ邪馬台国か、卑弥呼の居城か」と騒がれた環濠集落(ムラ)の跡。今では「吉野ヶ里歴史公園」として整備され、古代の暮らしを見て・感じて・体験できる一大テーマパークになっている。
フードコートやおみやげ屋まである。佐賀県産和牛ステーキ丼は脂身たっぷりで美味かった~(←そこか)

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環濠の周囲はこのように土塁や木柵、その内側には逆茂木(さかもぎ)が荒々しく立ちふさがる。
まさに敵からの侵入を防ぐことを第一に考えられた作りのクニだ。逆に言えば、これだけの防御態勢が必要だったことの証しでもある。

「桓帝・霊帝の間(西暦146~189年)、倭国大いに乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった」。『後漢書』のいわゆる「倭国大乱」の記述を裏付ける遺跡かもしれない。

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物見やぐら。「南内郭」にはこれが4つもあった。
倭人伝の「宮室や楼観、城柵を厳かに設け」のうちの城柵楼観をまさに見たわけだ。あとは宮室だけ。

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楼観より南内郭を見下ろす。

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外まで見渡せる。楼観も城柵も、敵の来襲にそなえるためだということがよくわかる。

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南内郭を出て、北内郭へ。「王の宮殿」があるところ。

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王の宮殿、まさに「宮室」だ。これで倭人伝の記述がぜんぶそろったことになる。

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王と重臣たちによる協議の場。クニのマツリゴトを担う。

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上層階で巫女がお祈りを捧げるの図。

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甕棺の丘。

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発掘されたさいの甕棺の様子。

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こんな感じで埋葬されたという・・・。

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副葬品。

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なかにはこんな首無しのご遺体も。戦乱の世の中だったことがよくわかる。

これ以外にも矢じりが刺さったままの人骨なども発掘されている。
まさに「倭国大乱」。

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出土品の石包丁をじっくり見てたおばさん「これじゃ刺し身は作れないわね...」

・・・晩ごはんのしたくをするための包丁じゃないですから(← 心の声)



端的にいうと、吉野ヶ里の最盛期は「倭人伝」に記されたころの邪馬台国時代よりもいくぶん早く、3世紀はじめころにはその全盛期を終えていたとされる。

倭人伝の邪馬台国に関する記述とかなりの部分で重なる国内でほぼ唯一の遺跡であることはまちがいないけれども、「倭人伝」に記されたいわゆる「旁国」21国のうちのどれか、おそらく「弥奴国」か「華奴蘇奴国」の国邑だろう。


※「旁国」21国とは :  斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国 女王の境界の尽きる所 

 
だとしても、僕はこの吉野ヶ里が邪馬台国ではなかったとは言えないと思っている。
話がややこしいので整理していこう。



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使者の報告書にある「その国」とは文意からして邪馬台国ではなく倭国を指しているのは明らかだ。倭国の首都こそが女王が都する所、つまり邪馬台国だ。
だとすると、当時の九州には邪馬台国や伊都国、奴国を擁する倭国連合と、それと対立する政治勢力(狗奴国)が存在した、と読める。
しかし北九州で七万戸もの家・・・あの奴国(福岡平野)の3.5倍の家を持っていく場所があるとすれば、、、一か所しかない。

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Googleマップの航空写真見れば一目瞭然。ここが邪馬台国だ。

つまり、物理的に邪馬台国は一つの国家ではありえず、小国家のつらなり、つまり連邦国家(Federated State)であると考えるしかない(「倭人伝」にある「旁国」21国だろう)。たぶん吉野ヶ里も邪馬台諸国連邦の一国だ
こう考えると、弥生時代の九州島の政治勢力の階層構造がほんの少し見えてくる。

小さな(今でいう市や郡くらいの広さの)「国」が30国。その中には上位構造として伊都国、奴国、投馬国、邪馬台国などがある。
邪馬台国は今でいえば東京都や横浜市みたいなもので、その中に小さな行政単位、区ならぬ国が存在している(21国の邪馬台諸国連邦)。それらと連邦外部として属する伊都国や奴国なども合わせた数か国を総称し、当時の中国の人は「倭国」と呼んだのだ。

つまり、卑弥呼は邪馬台国の女王などではありえず、下位と上位の政治単位30国を束ねる偉大なる倭国の女王(ヒメミコ=姫御子=卑弥呼)だったのだ。その「倭国」と対立するのが男王(ヒコミコ=彦御子=卑弥弓呼)の治める南の「狗奴(クナ)国」であった。
(ちなみにお分かりのとおり、ヒミコにしてもヒコミコにしてもとうぜん個人名ではありえないだろう。今の言葉でいえば、「女王と王」、つまりどちらも一般名詞だ。中国の使者が個人名を聞きそびれたのか、日本側が名前を聞かれて「女王さまです」と言ってすなおに名前ととられてしまったのかどうだかわからないが、どちらにしろ彼女や彼の本当の名前はおそらく永遠に謎のままである。)

とすれば、「邪馬台国は少なくとも吉野ヶ里よりかなり大きな環濠集落であったはず」とするよく言われる理屈はあまり考えなくてもよくなる。むしろ、もっとこじんまりとしたムラでもいいのではないか。

魏志倭人伝が「倭国伝」ではなくあくまで「倭人伝」なのは、日本列島の中には倭国だけでなく狗奴国もあるし東には別の「倭種」もいるしほかにもいろんな人いるよ、ということを暗に示しているのではないだろうか?

魏使が「女王の都する所」といったその所は、意外にもかなり広い範囲の地域を指しており、それはおおよそ見えてきた。川崎市に川崎区があるように小地域としての邪馬台国があったのか、あるいは横浜市に横浜区という小地域が存在しないように邪馬台国という包括的な国名しかなかったのか、それは分からない。
したがって、これからたどるべきは究極的には「女王の宮殿」だろう。広大な筑後川沿岸の、あの範囲の中に、おそらくその宮殿が眠っている。

佐賀、八女、久留米、鳥栖、朝倉・・・




たとえば・・・

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そこへ向かう途中見かけた看板。なんだ、自覚あるのか!

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みやま市・女山神籠石(ぞやまこうごいし)。

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古代の石垣が数キロにわたって並んでいる。

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ここは謎の多い遺跡だ。いまだにいつ誰が何のためにわざわざこんな砦を作ったのか、さっぱりわかっていない。女山(ぞやま)は「女王山」の略ではないかという説もある。
列石内に多数の古墳があり、2~3世紀の祭祀用の銅矛が出土していたりもする、らしい。しかも気になるのは、ここのもとの地名が山門(ヤマト)郡であるということだ。
ただし、これをすぐさま卑弥呼と結びつけるのはどうか、とは思う。というのは、『日本書紀』にこれに関連すると思しき記述があるからだ。

「(オキナガタラシヒメ[神功皇后]は)山門県(ヤマトノアガタ、旧福岡県山門郡)に到着した。そこで土蜘蛛の田油津媛(タブラツヒメ)を誅殺した。そのときに兄の夏羽(ナツハ)が軍を起こしたが、妹が誅殺されたことを聞き逃走した」

女山は、田油津媛の拠点ではなかったか。

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宮殿はともかく、何かしらの霊域であることはまちがいなさそう。

ともあれ、もう少し詳細な発掘データが欲しいところ。あるいは、この山の麓のどこかか。。。?

前々回の記事にも書いたけれども、仲哀・神功夫妻の活動時期は4世紀中~後半だ。卑弥呼から100年後、田油津媛は落日の邪馬台国の最後の族長、いわゆる「ひとごのかみ(魁帥)」
であったかもしれない(なぜかこの時代のこの地域には女性首長が多かったらしい)。
ここをもって、邪馬台国とそれを盟主に戴いた誇り高き倭国共和体政は、東からやってきた専制的なヤマト朝廷によって滅ぼされたのだと言っていい。長らく倭国連合の一翼を担っていた伊都国や奴国もやはり、仲哀・神功連合軍に投降していたらしいことは前々回の記事に見た。

これ以後、ヤマト朝廷は中国の王朝に対して「倭国」を名乗る。
まさに「謎の4世紀」、卑弥呼の宗女・台与(トヨ)の遣使(266年)以降、次に中国側に記録が出る(413年『晋書』)のはまさにヤマト政権の王たち、いわゆる「倭の五王」だ。おそらく仲哀と神功の子である応神(ホムダ)か、あるいはその息子・仁徳(オホサザキ)が倭王「讃」だろう。この時期西日本をはじめて完全に統一したヤマト王権が、そのご挨拶も兼ねて時の中国王朝に叙勲・
冊封を求めたのだろう。
中国側にとってはこの間日本に政権の断絶があったという認識はない。たんに関心がなかったのか、王権があえて伏せたのか。



次に向かうは(時間なさすぎて予定のところがぜんぜん寄れない)、

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朝倉市・平塚川添遺跡。

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吉野ヶ里に比べて圧倒的に地味。来園者も1000分の1くらい。いい遺跡なのに・・・

この地は古くより 交通の要衝として知られてきた。
地政学的には「卑弥呼の宮殿」の地としてふさわしいと思う。

そのほかにも、根拠はある。

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[拾いもの画像]

この甘木・朝倉を中心として、畿内大和の周辺との地名の一致があまりにも激しいという有名な説(安本美典他)がある。
地名だけでなくその位置関係の一致ぶりは異様としかいいようがない。その中心が、畿内では大和纒向であり、九州では甘木・朝倉なのだ。

安本は、これを邪馬台国が東へ移動(いわゆる「東遷」)した証拠であるとする、僕はその説はとらないが。

先ほどの平塚川添遺跡はその朝倉の有力候補地だが、、、

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あるいは、すでにこういう建物の下に埋められてしまっているとか(ここは、まさに大和の纒向の地を九州に当てはめたときに「ここだ」とされる場所)。

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現・小石原川の河原。

あるいは『記紀』にある、アマテラスをはじめとする天上の神々が集ったとされる「天の安の河原」を邪馬台国の遠い記憶と見、その「安」を「夜須」とする説にもとても惹かれるものがある。
どちらにしても、この甘木・朝倉地方である。


狗奴国は、したがって今の熊本だろう。ヤマト朝廷側に「熊襲」と記録された人々が住んだ土地だ。「狗古智卑狗(クコチヒコ)」は、熊本の菊池地方の官であろう(菊池彦)。

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