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2017年5月11日 (木)

勝手に魏志倭人伝(KGW) ③(終)  - 邪馬台国篇 -

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「卑弥呼と男弟」イメージ
佐賀県神崎郡吉野ヶ里町、吉野ヶ里遺跡北内郭「王の宮殿」より




邪馬台国  (所在地不明)

使者の報告書「(投馬国より)南へ、邪馬台国に至る。女王の都する所。水行で十日、陸行で一月。官に伊支馬があり、次官を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳鞮という。家は七万戸以上」
「その国はもと男子を王としていたが、7~80年後国が乱れ、何年も争いが続いた。そこで共に一女子を立てて王とした。名づけて卑弥呼という。鬼道とかいうよく分からない宗教につかえ、民をクラクラさせたりする。すでに高齢で夫は持たず、弟が政治を補佐する。王となってから彼女を見た者は少なく、千人の奴婢を侍らせ、ただ一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしている。宮室や楼観、城柵を厳かに設け、常に多くの兵が守衛する」
「その南に狗奴国があり、男子を王(卑弥弓呼=ヒミクコ。ヒコミコの誤りか)とする。その官に狗古智卑狗(クコチヒコ)がいる。女王に属さない」

邪馬台国はふつうに読めばヤマト国だ。ヤマトといえば畿内ヤマト(大和)国、今の奈良県東南部であることは動かない。今やヤマトは日本国全体を指したりする。戦艦大和、大和魂。男の子の名前なんかにもなってたり。もとは畿内の一小国の地名が、今や巨大な列島をまるっと表す大地名へと出世したのだ。
もとは今の行田あたりを指した「さきたま」が、今では超巨大メトロポリス・さいたまにまで出世したのと同じだ(←たぶんちがう)

箸墓という女王を葬った感の濃厚な最初期の超大型前方後円墳(墳長278m)もあるし、大発見の相次ぐ纏向遺跡こそが邪馬台国なのだという説には一理も二理もある気がしてくるのは、まあいかんともしがたい。

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ヤヤトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)の墓、通称箸墓古墳。去年1月。

ここが邪馬台国九州説の一番の泣き所だ。九州には残念ながらヤマトという大地名は残ってない(小地名ならいくつかあるけど弱い)。邪馬台国は畿内か九州か、というアンケートをとれば、おそらく9:1くらいで畿内と答えるのではないか。何しろ名前が一致するのだから。
事実、弥生時代関連の本など読んでいても、邪馬台国は畿内にあったということを自明で暗黙の前提としてかかっているものも少なくない。
が、纒向は初期ヤマト政権の大王たち(崇神・垂仁・景行)の都と考えるほうが自然ではないだろうか。

崇神は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、垂仁は纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、景行は纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)に居を営んだ、と『日本書紀』にある。磯城(しき)は纒向を含む地名であり、この3代の初期大王は纒向に縁の深い人物たちであったことは想像に難くない。

僕は、理由を挙げると長くなりすぎるので書かないが、邪馬台国は北九州のどこかにあったと思う。
では、どこか。


・・・といわけで、この日もレンタカー(ホンダの赤の軽)を駆って「あやしげな場所」をたどる旅に出た。

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吉野ヶ里遺跡入り口。
遺跡の地図見てたおじさん「めっちゃ広いな。まさに佐賀のディズニーランドやな


ほんとうならば、僕が邪馬台国の領域だと考える筑後川流域、有明海からの入り口にあたる柳川市あたりからたどりたかったのだけれど、時間の都合もあり吉野ヶ里からということにした。今まで来たことなかったし。

吉野ヶ里遺跡。1980年代後半からの発掘調査によって「すわ邪馬台国か、卑弥呼の居城か」と騒がれた環濠集落(ムラ)の跡。今では「吉野ヶ里歴史公園」として整備され、古代の暮らしを見て・感じて・体験できる一大テーマパークになっている。
フードコートやおみやげ屋まである。佐賀県産和牛ステーキ丼は脂身たっぷりで美味かった~(←そこか)

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環濠の周囲はこのように土塁や木柵、その内側には逆茂木(さかもぎ)が荒々しく立ちふさがる。
まさに敵からの侵入を防ぐことを第一に考えられた作りのクニだ。逆に言えば、これだけの防御態勢が必要だったことの証しでもある。

「桓帝・霊帝の間(西暦146~189年)、倭国大いに乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった」。『後漢書』のいわゆる「倭国大乱」の記述を裏付ける遺跡かもしれない。

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物見やぐら。「南内郭」にはこれが4つもあった。
倭人伝の「宮室や楼観、城柵を厳かに設け」のうちの城柵楼観をまさに見たわけだ。あとは宮室だけ。

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楼観より南内郭を見下ろす。

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外まで見渡せる。楼観も城柵も、敵の来襲にそなえるためだということがよくわかる。

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南内郭を出て、北内郭へ。「王の宮殿」があるところ。

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王の宮殿、まさに「宮室」だ。これで倭人伝の記述がぜんぶそろったことになる。

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王と重臣たちによる協議の場。クニのマツリゴトを担う。

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上層階で巫女がお祈りを捧げるの図。

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甕棺の丘。

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発掘されたさいの甕棺の様子。

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こんな感じで埋葬されたという・・・。

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副葬品。

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なかにはこんな首無しのご遺体も。戦乱の世の中だったことがよくわかる。

これ以外にも矢じりが刺さったままの人骨なども発掘されている。
まさに「倭国大乱」。

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出土品の石包丁をじっくり見てたおばさん「これじゃ刺し身は作れないわね...」

・・・晩ごはんのしたくをするための包丁じゃないですから(← 心の声)



端的にいうと、吉野ヶ里の最盛期は「倭人伝」に記されたころの邪馬台国時代よりもいくぶん早く、3世紀はじめころにはその全盛期を終えていたとされる。

倭人伝の邪馬台国に関する記述とかなりの部分で重なる国内でほぼ唯一の遺跡であることはまちがいないけれども、「倭人伝」に記されたいわゆる「旁国」21国のうちのどれか、おそらく「弥奴国」か「華奴蘇奴国」の国邑だろう。


※「旁国」21国とは :  斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国 女王の境界の尽きる所 

 
だとしても、僕はこの吉野ヶ里が邪馬台国ではなかったとは言えないと思っている。
話がややこしいので整理していこう。



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使者の報告書にある「その国」とは文意からして邪馬台国ではなく倭国を指しているのは明らかだ。倭国の首都こそが女王が都する所、つまり邪馬台国だ。
だとすると、当時の九州には邪馬台国や伊都国、奴国を擁する倭国連合と、それと対立する政治勢力(狗奴国)が存在した、と読める。
しかし北九州で七万戸もの家・・・あの奴国(福岡平野)の3.5倍の家を持っていく場所があるとすれば、、、一か所しかない。

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Googleマップの航空写真見れば一目瞭然。ここが邪馬台国だ。

つまり、物理的に邪馬台国は一つの国家ではありえず、小国家のつらなり、つまり連邦国家(Federated State)であると考えるしかない(「倭人伝」にある「旁国」21国だろう)。たぶん吉野ヶ里も邪馬台諸国連邦の一国だ
こう考えると、弥生時代の九州島の政治勢力の階層構造がほんの少し見えてくる。

小さな(今でいう市や郡くらいの広さの)「国」が30国。その中には上位構造として伊都国、奴国、投馬国、邪馬台国などがある。
邪馬台国は今でいえば東京都や横浜市みたいなもので、その中に小さな行政単位、区ならぬ国が存在している(21国の邪馬台諸国連邦)。それらと連邦外部として属する伊都国や奴国なども合わせた数か国を総称し、当時の中国の人は「倭国」と呼んだのだ。

つまり、卑弥呼は邪馬台国の女王などではありえず、下位と上位の政治単位30国を束ねる偉大なる倭国の女王(ヒメミコ=姫御子=卑弥呼)だったのだ。その「倭国」と対立するのが男王(ヒコミコ=彦御子=卑弥弓呼)の治める南の「狗奴(クナ)国」であった。
(ちなみにお分かりのとおり、ヒミコにしてもヒコミコにしてもとうぜん個人名ではありえないだろう。今の言葉でいえば、「女王と王」、つまりどちらも一般名詞だ。中国の使者が個人名を聞きそびれたのか、日本側が名前を聞かれて「女王さまです」と言ってすなおに名前ととられてしまったのかどうだかわからないが、どちらにしろ彼女や彼の本当の名前はおそらく永遠に謎のままである。)

とすれば、「邪馬台国は少なくとも吉野ヶ里よりかなり大きな環濠集落であったはず」とするよく言われる理屈はあまり考えなくてもよくなる。むしろ、もっとこじんまりとしたムラでもいいのではないか。

魏志倭人伝が「倭国伝」ではなくあくまで「倭人伝」なのは、日本列島の中には倭国だけでなく狗奴国もあるし東には別の「倭種」もいるしほかにもいろんな人いるよ、ということを暗に示しているのではないだろうか?

魏使が「女王の都する所」といったその所は、意外にもかなり広い範囲の地域を指しており、それはおおよそ見えてきた。川崎市に川崎区があるように小地域としての邪馬台国があったのか、あるいは横浜市に横浜区という小地域が存在しないように邪馬台国という包括的な国名しかなかったのか、それは分からない。
したがって、これからたどるべきは究極的には「女王の宮殿」だろう。広大な筑後川沿岸の、あの範囲の中に、おそらくその宮殿が眠っている。

佐賀、八女、久留米、鳥栖、朝倉・・・




たとえば・・・

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そこへ向かう途中見かけた看板。なんだ、自覚あるのか!

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みやま市・女山神籠石(ぞやまこうごいし)。

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古代の石垣が数キロにわたって並んでいる。

Photo

ここは謎の多い遺跡だ。いまだにいつ誰が何のためにわざわざこんな砦を作ったのか、さっぱりわかっていない。女山(ぞやま)は「女王山」の略ではないかという説もある。
列石内に多数の古墳があり、2~3世紀の祭祀用の銅矛が出土していたりもする、らしい。しかも気になるのは、ここのもとの地名が山門(ヤマト)郡であるということだ。
ただし、これをすぐさま卑弥呼と結びつけるのはどうか、とは思う。というのは、『日本書紀』にこれに関連すると思しき記述があるからだ。

「(オキナガタラシヒメ[神功皇后]は)山門県(ヤマトノアガタ、旧福岡県山門郡)に到着した。そこで土蜘蛛の田油津媛(タブラツヒメ)を誅殺した。そのときに兄の夏羽(ナツハ)が軍を起こしたが、妹が誅殺されたことを聞き逃走した」

女山は、田油津媛の拠点ではなかったか。

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宮殿はともかく、何かしらの霊域であることはまちがいなさそう。

ともあれ、もう少し詳細な発掘データが欲しいところ。あるいは、この山の麓のどこかか。。。?

前々回の記事にも書いたけれども、仲哀・神功夫妻の活動時期は4世紀中~後半だ。卑弥呼から100年後、田油津媛は落日の邪馬台国の最後の族長、いわゆる「ひとごのかみ(魁帥)」
であったかもしれない(なぜかこの時代のこの地域には女性首長が多かったらしい)。
ここをもって、邪馬台国とそれを盟主に戴いた誇り高き倭国共和体政は、東からやってきた専制的なヤマト朝廷によって滅ぼされたのだと言っていい。長らく倭国連合の一翼を担っていた伊都国や奴国もやはり、仲哀・神功連合軍に投降していたらしいことは前々回の記事に見た。

これ以後、ヤマト朝廷は中国の王朝に対して「倭国」を名乗る。
まさに「謎の4世紀」、卑弥呼の宗女・台与(トヨ)の遣使(266年)以降、次に中国側に記録が出る(413年『晋書』)のはまさにヤマト政権の王たち、いわゆる「倭の五王」だ。おそらく仲哀と神功の子である応神(ホムダ)か、あるいはその息子・仁徳(オホサザキ)が倭王「讃」だろう。この時期西日本をはじめて完全に統一したヤマト王権が、そのご挨拶も兼ねて時の中国王朝に叙勲・
冊封を求めたのだろう。
中国側にとってはこの間日本に政権の断絶があったという認識はない。たんに関心がなかったのか、王権があえて伏せたのか。



次に向かうは(時間なさすぎて予定のところがぜんぜん寄れない)、

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朝倉市・平塚川添遺跡。

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吉野ヶ里に比べて圧倒的に地味。来園者も1000分の1くらい。いい遺跡なのに・・・

この地は古くより 交通の要衝として知られてきた。
地政学的には「卑弥呼の宮殿」の地としてふさわしいと思う。

そのほかにも、根拠はある。

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[拾いもの画像]

この甘木・朝倉を中心として、畿内大和の周辺との地名の一致があまりにも激しいという有名な説(安本美典他)がある。
地名だけでなくその位置関係の一致ぶりは異様としかいいようがない。その中心が、畿内では大和纒向であり、九州では甘木・朝倉なのだ。

安本は、これを邪馬台国が東へ移動(いわゆる「東遷」)した証拠であるとする、僕はその説はとらないが。

先ほどの平塚川添遺跡はその朝倉の有力候補地だが、、、

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あるいは、すでにこういう建物の下に埋められてしまっているとか(ここは、まさに大和の纒向の地を九州に当てはめたときに「ここだ」とされる場所)。

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現・小石原川の河原。

あるいは『記紀』にある、アマテラスをはじめとする天上の神々が集ったとされる「天の安の河原」を邪馬台国の遠い記憶と見、その「安」を「夜須」とする説にもとても惹かれるものがある。
どちらにしても、この甘木・朝倉地方である。


狗奴国は、したがって今の熊本だろう。ヤマト朝廷側に「熊襲」と記録された人々が住んだ土地だ。「狗古智卑狗(クコチヒコ)」は、熊本の菊池地方の官であろう(菊池彦)。

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2017年5月 8日 (月)

勝手に魏志倭人伝(KGW) ② - 一支国篇 -

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壱岐といえばウニ。というわけで、郷ノ浦のみうらやさんにて。
潮の香りと赤ウニの旨味が口の中で融合する絶妙なハーモニー。的な

前日の奴国より、記述をさかのぼって一支(壱岐)国へ(対馬国は船のチケット獲れず血の涙を流しつつ断念)。
早朝、どきっ! 男だらけのカプセルホテル奴国INNの無料朝ごはんを断腸の思いでキャンセルして港まで歩き、8:00出航の壱岐行きの船を待つ。

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九州郵船ジェットフォイル

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出航。天気も良く海も穏やか。

今でこそ博多より壱岐まで高速船で一時間強で着くが、遣隋使などよりはるか昔の弥生時代の使者たちはこの海をどのような船で、どれくらいの時間をかけて渡ったのか。
命がけの旅だったろう。

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島がかなり見えてきた。街も見える。

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到着。朝日が当たってきれいだ。


一支国 (現・長崎県壱岐市)

使者の報告書「(対馬国より)また南に瀚海と呼ばれる海を渡り、千里ちょい行くと一支国に至る。長官を卑狗(ヒコ)といい副官を卑奴母離(ヒナモリ)という。三百里四方、竹木叢林多く三千ほどの家がある。田地あるも耕すだけでは食うに足らず、(対馬国と同じく)南北に海を渡って穀物を買い入れている」

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1700年前は「田地あるも耕すだけでは食うに足らず」であったらしいが、今では島外にも米を売るほどだとか。

一支国。まず、この漢字表記が非常に気になる。なぜ「一支」なのか
一支のうち「一」は、今も昔も「イ」と読めるのは変わらない。問題は「支」だ。いま、「支店」「支柱」「十二支」などというように「シ」と読む。では弥生時代当時、今の壱岐は「イシ国」と呼ばれていたのだろうか。答えはノンだ(←これが言ってみたかった)。

漢字の読みは時代によって変わる。「上古音」(周・秦・漢代)と「中古音」(隋・唐代)の音の変遷はだいたいつかめている。
この「支」という文字についていうと、「中古音」は「し」だが、上古音では「き」と読んでいたことが分かっているので、「一支」で「イキ」と読んでいた可能性が高い。つまり、今も昔も日本人はこの島を「イキ」と呼んでいた、ということだ。
当たり前といえば当たり前で馬鹿みたいだけれど、1700年前の中国人と現代の日本人が、ある地名を同じ発音で呼んでいるという事実に慄然とする(のは自分だけだろうか)。

・・・と、こんな話はおいといて。

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本日の相棒、人生初の電動チャリ(レンタル)。アップダウンある島では有効だ。
はじめて漕いだ感想。「加速やばい! ふつうのチャリに帰れなくなりそう!」。

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島の自然を近くで見れるのもチャリならでは。車ではいちいちこういう写真撮ったりできないだろう。

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島の東南に位置する原の辻遺跡は一支国の国都である(なんと船着き場まで発掘されている!)。

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弥生時代当時の集落の様子を復元した公園が整備されている。

ちなみに倭人伝に記されている全31国のうち、国都(「国邑」)がはっきり確定されているのはこの一支国・原の辻のみだ(他には有名な吉野ヶ里があるけども、あちらは国が確定してない)。
弥生時代、はるか魏の国を出て邪馬台国を目指した使者も、反対に邪馬台国から卑弥呼が大陸に遣わした使者も、この都に立ち寄っただろうか。

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復元住居はスズメの棲みかになっていたりw

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集落をくまなく歩いても小一時間もすればまわれてしまうほどこじんまりしているが、まちがいなくこここそが一支国の「王都」である。
ここより、西側の高台を登ったところにある「一支国博物館」にいちおう寄る。

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途中で見た風景。壱岐は牛も有名なんだよなー。のどかー。

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突然どーーーん

かの黒川紀章設計という、壱岐島きっての近代建築。客のおもてなし方も尋常でなかった。一流旅館並み。
団体客がバスで帰るときも見えなくなるまで、みんなでずーっとお辞儀したり。トヨタのお店かよ。。。

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弥生時代の衣装を着た案内のお姉さん、「これが出来てからうちの近くにもコンビニできた」とか言ってたw
島内の1/2の資本をここにつぎ込んだ感とでもいえば分かってもらえるか。。。
良きにつけ悪しきにつけ、象徴的な施設である。

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パノラマとか人面石(ゆるキャラ「人面石くん」のモデル)とか。

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展望室からの復元公園の眺め。
さてさて、この島をじっくり知るために、また旅に出る。

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海だ、海入りたい。

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入った。気持ちいい。

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むむ、柱状節理?(よく知らんけど)

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壱岐の町並み。なんか懐かしい。博物館なんかよりこっちのほうがよっぽど博物館だ。

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今は誰も住んでなかったけれども、なんでも直し屋さんだったのかな。ナイス旧仮名遣い。

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そうか、ここは長崎なんだった。いただきます。

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なんか死んでる。目立った外傷はないけどロードキルだろう。

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なんで観光名所になってるのかよくわからない月読神社。わざわざ観光バスで団体が乗り付けてた。

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境内のムサシアブミ(サトイモ科)。いい形。

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鬼のいわや古墳。写真撮ってたらいきなり石組みの中から鬼、かと思ったら人が出てきてびっくらした。

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で、ここも来てみたかったところ、人里からかなり離れ、うっそうとした林の中を登っていったところにある。。。

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島の中心部にあるカラカミ遺跡の中心地。

「香良加美」とか埼玉の走り屋みたいな当て字使ってるけれどもカラカミ(唐神)、つまり外来の神だろう。
この夜露死苦神社、でなくて香良加美神社を中心とした周囲に弥生時代の集落跡があるという。
が、今となってはただぼうぼうとした草が生えているだけ。

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国内最古の炉の跡、というのでこんなおっさんの模型写真w
「手がこんなでっかくなっちゃったー」「あーごめんごめん」

平地で稲作の原の辻に対する、高地で狩猟・漁撈のカラカミ。対照的なふたつのほぼ同時代の遺跡。
考古学者の森浩一によれば、この遺跡は一支国の「国邑」(原の辻)に対する「別邑」ではなかったか、とされる(『倭人伝を読みなおす』)。

「国邑ではそれぞれ一人を選んで天神の祭りをおこなった。これを天君という。さらに諸国には別邑があって蘇塗(ソト)といった。大木を立て鈴と鼓をかけて鬼神を祭った。逃亡者がそこへ逃げこむと連れ戻せず悪の巣になった、云々」(『魏志』「韓伝」)。

そのアジール、あるいは駆け込み寺としての別邑こそが、このカラカミだったのではないか、と。
それにしても引用の、別邑を馬韓語で「ソト」と云ったという記述は気になる。国邑を「ウチ」と云った、なんて証拠出てこないだろうかしら。


・・・というわけで、一日をほぼ一支国のサイクリングにあてた日であった。


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おまけ。博多に帰って着替えようとしたらこんなだった。やっちまった・・・。


次回はついに邪馬台国へ! ではでは!

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2017年5月 7日 (日)

勝手に魏志倭人伝(KGW) ①  - 末盧国・伊都国・奴国篇 -

ぷら~とひとり、2泊3日で九州に行ってきました。目的は、何度も読み返してきた「魏志倭人伝」の世界を見たかったから、のひと言。

というわけで、つらつら旅の報告を。

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飛行機から見た富士山。

一日目は、早朝福岡に降り立ち、レンタカー借りて末盧国、伊都国、そして奴国へという予定。


末盧国 (現・唐津市)

使者の報告書「(一支国より)また海を千里余り渡ると末盧国に至る。家は四千ちょい、山と海にへばりつくように居住する。道には草木がうっそうと茂り、前を歩く人の姿が見えないほどだ。住民は浅い深いにかかわらず好んで海に潜り、魚やアワビを獲る」

はじめて読んだとき、1700年も前の人と感覚的にリンクした気がしてゾクゾクした「道を行くと前の人が見えない」。あれ以来ずいぶん読み返してきたなーと思う。

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今はどこもこんな道だけれども、もしかしたらこの海沿いの道を魏の使者たちも歩いたかもしれない。

末盧国、魏の使者が最初に上陸する倭の地。末盧(マツラ)はおそらく松浦で、当時の中国人が字音を当てたのか。いずれにせよ松浦川下流域、唐津平野をいうのだろう。現地名の「唐津」も意味深。
報告書にアマさんが出てくるのは使者たちにとりよほど珍しかったためだろうか。

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鏡山より望む末盧国比定地と虹の松原(右)

実はここ唐津以外にも比定地はいくつかあるけれど、ここと見てほぼほぼまちがいない。今でも壱岐島と九州島を結ぶフェリーには唐津港を使う便が残っている。魏の使者もこれと同じ航路を使っていた可能性は高いと思う。

松浦川の両岸にそれぞれクニが形成されており、右岸の宇木汲田遺跡からはほぼ「王墓」と言っていいほど充実した副葬品が検出されている。少なくとも「倭人伝」に記されている「大人(たいじん)」の墓であることはまちがいないだろう。
今回、残念ながら時間の都合でこの遺跡には寄れなかった。

釜山→対馬→壱岐→唐津という倭人伝の経路を辿るのが本来だが、もろもろオトナな事情でここから旅を始めるのである。
・・・というわけで東へ、伊都国に向かう。

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伊都国に来たんだな~俺。と思わせてくれる看板。



伊都国
 
(現・福岡県糸島市)

使者の報告書「(末盧国より)陸を東南へ五百里行くと伊都国に至る。その長官を爾支(ニキ?)といい、副官を泄謨觚・柄渠觚(シマコ・ヘクコ?)という。千かそこいらの家がある。代々王がいるが、みな女王国に従う。帯方郡からの使者が往来し、常にとどまる所」
「女王国の北側には特に一大率という役職を置き諸国を監察させており、諸国はこれを畏れ憚っている。一大率は常に伊都国におり・・・」

伊都(イト)国は、1700年後の今も糸島として名が残っている。イト国とシマ(斯馬)国がのちに合併したのだ。弥生時代の倭国の最重要外交拠点であり、倭人伝にあるとおり王がいたことはいくつかの「王墓」の存在から明らかだ。

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伊都国歴史博物館

この博物館、周辺の「王墓」から出土した数々のお宝が展示されていて圧巻だが、ゴールデンウィーク真っ只中というのに人が少ない。だだっ広い駐車場に自分のを含めて車がたった3台。世の古代史ヲタクたちはいったいどこで何をやってるんだろうか。展示されているものたちの圧倒的な価値に比して、その展示の仕方は圧倒的に地味だ。写真撮影禁止ってのも泣ける。。。
 
それにしても、平原王墓出土のいわゆる「八咫の鏡」の超ド級な圧倒的存在感たるや! レプリカがあって持ってみたけど、どうやっても手鏡には向いてないなと思う。片手だとすぐに二の腕ぷるぷるきて次の日筋肉痛だ。
ざっとながめて外へ出る。車をここに置いて伊都国の栄光を徒歩で体験するために。
遠くで雷鳴。雨具なんて持ってないけど気にしない気にしなーい。

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出てすぐ、怡土小学校校舎の壁にドーン!と例の鏡のレリーフが。
さすが歴史ある地の末裔たち、分かってる。

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その校庭。「掘ったらなんか出てくんじゃね?」(← 心の声)

しばらく歩く。博物館でもらった「伊都国歴史散歩地図」によると、平原王墓まで行って帰って7.4km、約2時間。ちょっと後悔しはじめるワタシ。「車でくれば。。。」 いやいや。もう後戻りはできない。
だんだん近くなりつつある雷鳴。

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伊都国の「国邑」(国の都のこと)の範囲に入ってきた。が、とりたてて気持ち的に↑る要素なし。

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第一目的地。・・・住宅建設予定地? いやいやいや

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三雲南小路遺跡、こここそ伊都国最古の王の墓である!!(紀元前後。キリストと同世代。)

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今でこそこんなだが、発見当時(江戸時代)には墳丘が存在していたらしい。

発掘された副葬品の中でもガラス製の璧(へき)なんてのは、当時の中国皇帝が王侯クラスの者にしか贈らなかったとされる超ド級の宝物である。

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[拾い物画像]ガラス製璧。
博物館で見たときは「ウエハース」にしか見えなかった。

「(三雲南小路遺跡の被葬者は)まずイト国の王であることは間違いない。しかし、ただの「国」の王ではない。倭を代表するほどの国の王、まさに「王のなかの王」なのだ」
(寺沢薫『日本の歴史02 王権誕生』)。

王の中の王、キング・オブ・キングス(ⓒアリス「チャンピオン」)だ。

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この遺跡に着く直前、西に40mくらいのところにある細石(さざれいし)神社。

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この神社は、ここ三雲南小路遺跡の拝殿であるという説がある。

案内板によればご祭神は「石長姫(イワナガヒメ)と木之花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)」という姉妹神であるが、この遺跡が王夫妻の墓と考えられることからして、「この墓の主は瓊々杵尊(ニニギノミコト)と木之花咲耶姫」となる(らしい)。

ニニギノミコトは伊都国の王だった!! 説。。。

... ここで思い出されるのが上記「倭人伝」の「伊都国の長官を爾支(ニキ?)といい・・・」という部分。爾支、これこそがニニギのことだとしたら!? そう、ここでついに中国の歴史書(「倭人伝」)と日本の歴史書(『記紀』)がリンクするのだ!  「邇邇芸」という『古事記』の表記とも「爾支」は微妙にマッチしている気もしないでもなくもない。。。

話が若干『学研ムー』みたいになりつつあるのでこのへんで。

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三雲南小路から歩いて5分くらいの道と田んぼの間にある看板。

井原鑓溝遺跡。ここで王の副葬品が発見されたのは今から約200年ほど前で、現物は四散して残っておらず、発見の記録だけが現存する。したがって遺跡の位置も、一応の推測地はあるがいまだに不明である。いずれにせよ、先ほどの三雲南小路にせよここにせよ、歴代国王の墓が集まっている伊都国の「王家の谷」であったことは間違いない。

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看板の後ろ側の田んぼ。この辺り掘ればまだまだいろいろ出てくるんでないの。心の声。

ちなみにこの井原鑓溝王墓は、後漢に朝貢した倭国王・帥升(日本史上、外国史書に名の残る最初の人物)の墓とみる説がある(「安帝の永初元年(西暦107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ謁見を請う」『後漢書』「東夷伝」)。時期的にもかなり信憑性が高いと思う。
だとすれば、志賀島から出てきた金印と同等のものがこのあたりに埋まっている可能性だってなくはない。のでは !?

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街中には、伊都国当時から代々続いてきたにちがいない老舗が。

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次の目的地へ。しばらく歩く。しかも登り。きつい。しかもとうとう雨降ってきた・・・。

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つ、着いた。平原遺跡。この王墓だけなぜ「王家の谷」ではなくこんな高台にあるのか不思議だ。なんかのっぴきならない事情が感じられる。

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・・・ただの小山。
だが、この遺跡は日本史上とんでもなく重要な地位を占めているのだ。


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ここ、井原鑓溝から数代後の王の墓と目される平原王墓からは世界最大の超大型鏡(先ほどの学校の壁のレリーフ)のほか勾玉や管玉、耳璫(じとう=イヤリング)等アクセサリーが大量に出土しており、その被葬者は強大な権力を有した呪的女王であったろうとされる。副葬されていたすべての鏡がわざわざバラバラに割られていることからも、この王がなんかしらのっぴきならん事情のもとに埋葬されたフシがあることが推測される。
築造時期は卑弥呼の死亡時期(西暦247年ごろ)より数十年早いとされるが、彼女らは互いに面識があった可能性がある。この墓こそが卑弥呼の墓だという人もある。誰かスピリチュアルなひと中の人と交信してくれないかな~

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・・・とか悠長に見学してたらとつぜんどしゃ降りに。

雨具などいっさい持ってないのですぐそばのフレンチレストランの軒先でしばし雨宿りさせていただく。ものすごい稲光りそして雷鳴。なんとなく、歩いてたときから「あそこに着くころにすごいことになるな」という予感はあったんだよなー。

向こうの木の近くに見えるのが平原王墓。こんなリッチな環境でお食事できるなんて、予約しとくんだった・・・。嫌な顔ひとつせず「よければ中へ」とおっしゃってくださったpinoxのシェフにひたすら感謝であった。

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小降りになってきたので、きたないナリしたおっさんが店の軒先にいるのも営業上よろしくないのでは、と自戒しとりあえず近くの空き家までダッシュして雨宿り。傘もないしこれからどうすっかな、こっから車まで4キロくらいあるし。。。(やることなくてヒマなので自撮りw)

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とか言ってるうちに雷も去って雨も小降りに。いざ行かん。

にしてものどかだ。かつて倭国の最重要地だった面影は、ない!(ビシィ !

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古代史商法w

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・・・とか思いながら歩いてたら、いつのまにかまた伊都国の中心部へ来ていた。呼ばれたんだろうか。。。(← 地図のコースどおり)

築山古墳、4世紀末ごろの築造。先ほどの「伊都国最後の王」とされる平原王墓より150年ほど後の古墳だ。しかも、前方後円墳。

要するに、この間にこの倭国の最重要拠点だった地は東から来たヤマト(大和)朝廷に占領・支配されたのだ、といっていい。
『日本書紀』仲哀紀に「伊都県主(いとのあがたぬし)の祖、五十迹手(イトデ)がいまの彦島に天皇を迎え、鏡、剣、玉のいわゆる「三種の神器」を捧げて投降してきたという記述があることが想起される。仲哀(タラシナカツヒコ)は、かのヤマトタケルの皇子、神功皇后(オキナガタラシヒメ)の夫であり、おそらく366年ごろ没の人物である。年代的に、この墓がヤマト政権側の豪族となったイトデやその親族の墓であるという想定も、そう突飛な考えとはいえまい。。。(いや突飛か?)

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「伊都国の王都」

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王都・・・

なんとか出発地にたどり着いて、ほっとレンタカーに座り込むワタシ。
さてさて、あと一か所、奴国が残っている。

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おまけ。福岡空港で見たおみやげ屋「伊都きんぐ」

誇り高き伊都国王の系譜がこんなところに受け継がれているとは。。。



・・・つづいて
奴国 (現・福岡県福岡市・春日市)

使者の報告書「(伊都国より)東南の奴国まで百里ある。その長官を兕馬觚(シマコ)といい、副官を卑奴母離(ヒナモリ)という。家は二万戸ちょい」(急に記述が簡便にw)

奴(ナ)国は後に儺(ナ)の津と言われる博多付近を中心とする福岡平野にあったことはほぼまちがいない。江戸時代に志賀島で発見された「漢委奴國王」印の「奴」は、諸説あるがこの奴国のことだろう(「建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す。(略)光武、賜うに印綬を以てす」「後漢書東夷伝」)。

弥生後期の邪馬台国時代には伊都国とともに今でいう旧都鎌倉のような存在だったかもしれない(奴国→伊都国→邪馬台国という倭国内における権力中枢の移動)。また卑弥呼政権下の最重要人物である難升米(ナシメ?)は奴国の人であるという有力な説がある(難=奴)。

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その奴国では「博多どんたく」なるおそらく弥生以来の伝統的なお祭りをやっていた。今宵の宿はこの近くなのだが、こんなことやってるなんてぜんぜん知らんかった。

・・・よく宿とれたな。

奴国の王墓めぐりも当然したかったのだが(須玖岡本遺跡、例の金印の王の墓の可能性も)、残念ながらタイムアップ(伊都国で時間使い過ぎw)。

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奴国といえば中洲、天神、、、といえば当然屋台でしょう、ということで一人繰り出す。が、どの店も混んでる混んでる。

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やっと名物もつ鍋にありつきつつ(これは美味かった!)。

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街頭で長渕剛「順子」歌ってたのでしばらく耳をそばだてつつ。。。

。。。というわけで、奴国の夜もとっぷり暮れ、翌日の一支国行きの準備もそこそこに、女人禁制カプセルホテルの狭い部屋で寝息を立てるのである。。。zzz

。。。続く!

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2016年1月 4日 (月)

飛鳥へ 1

飛鳥に着いてしばらく、もうずいぶん前にいちどここを訪れたことがあることを忘れ去っていたぼくは、言い知れぬ懐かしさを日本人の心とか魂とかに還元しようとしばらくもがいていた。
学生最後の年、友人と車で来たことがあったのだ、そりゃ懐かしさを感じるはずだ。あれは夏だった


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早々、伝飛鳥板蓋宮に来てみた。ガイドブックには必ず出ているが、別だん面白いもんでもない。事実、いっしょに来ていたカップルは「なんにもないねー」などと言い合っている。そう、なんにもない。
時の皇極女帝の目の前で、実の息子の人殺しシーンが繰り広げられた凄惨なクーデターの現場は、何事もなかったのだと言わんばかりに静まり返っている



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簡単な説明の看板があって、あとはだだっ広い遺構が足元に拡がっているだけ。建物を再現したりだとかいったたぐいの気の利いたことはいっさいなされない。でも、それでいい。おかしな建物作ったりするよりずっと



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この足の下には一時期わが国の先導者たちの宮殿が幾度かに渡って置かれていたことはまちがいがない。ただ、どうにも実感がわかないのだけれども



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おきまりの飛鳥寺をさっと観たあと、その西側では発掘が行われている最中。中大兄と鎌足が出会った「槻の広場」か。今はどこを見渡しても大きなケヤキはない。
歴史書によれば、ここで何百人もの国内外の賓客や「化外の民」を饗応したこともあったいうが、じっと耳を澄ましてみても、怒鳴り声や甲高い笑い声、意味の分からぬアイヌの言葉は聞こえてこない




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飛鳥坐神社に立ち寄る。近くに小さな溝に水が流れている。のんびりした風景だが、そこにも小さな説明書きがあり、斉明天皇が築かせた「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)」の一部なのだと知る。
どこもかしこも歴史歴史歴史だ



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枯れ木を馬に見立てたつもりだろうか、だとすれば気が利いたオブジェだ。ここからすぐそこに、厩戸皇子がお生まれになったという橘寺があるのだから。打ち棄てられた廃材が偶然そう見えるだけなのかもしれないが



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この村は、目的もなくただぶらぶら歩いているだけでこんなところに出くわす。推古天皇豊浦宮趾。
かつて天皇がお住まいになっていたところに家を建て、その上で暮らすというのはどんな気分なんだろう。きっと、当たり前すぎて人に自慢したりする気にもならないだろう



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推古天皇といえば、橿原に近い田んぼにはこんな風景がある。古宮土壇。かつて、彼女が構えた小墾田宮の跡地ではないかとされていたが、それはすぐそばの別の場所だそうだ。
今では蘇我氏の邸宅の庭園の一部だったのではないかと推定されている。
かつての大豪族の邸宅のあったかもしれない場所は、今は自動車修理工場になっている


(2に続く予定)

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2013年8月20日 (火)

高原の風を集める 5

午後からは、例によって勝手に自然観察会(略してKSK)。
で、まず手始めに800mくらいスキーのゲレンデをくだったところにヤナギランの群生地があるというので、そちらへ。

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ヤナギラン(Chamerion angustifolium)、アカバナ科。
山渓の『日本の野草』によると、「森林の伐採跡や山火事跡などにいち早く入り込んで一面に群生し・・・」とあるように、スキー場のような人工的に攪乱されることの多い山肌なんかを真っ先に覆う植物。
土壌が安定するまでのつなぎ植物。都会ならさしずめセイタカアワダチソウがこの役割ってこと?

このピンクに埋めつくす景色は(好き嫌いはおいといて)圧巻でした。

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その近くの原っぱで娘がつかまえたオニヤンマ。片目がつぶれてる。

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アサギマダラを観察した原っぱに帰ってきたら、キアゲハが落っこちてた。
うちのほうのやつより鮮やかに思えるのは気のせいか。

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ノリウツギの花粉を貪りつつ交尾に勤しむトラフカミキリ(たぶん)。

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死してなほこの世に残せし痕跡。




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湿原に向かっていきます。
ちょっといったところに名物(?)、「360°ブナ」。
立派なブナの木が、途中でグニャリと曲がり、360°回転して空に伸びてる。

雪国ならではの光景。肘鉄でも食わされそう。

で、湿原へ。

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ナガボノシロワレモコウ。バラ科。氷河期の生き残りとか。
湿地全体というより、通路に沿ってお行儀よく生えてる感じ。

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ピンク色がかったものも。

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オゼミズギク。

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ウメバチソウの芽出し。とてもかわいい。

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湿地を抜けたところでひと休みしてたら、小さな花を見つけた。
歩いてたら絶対に見逃すような花。

ラン科のトンボソウあたりだろうか。
座り込んで初めて気づく無力感。

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神社のおみくじみたいな花。
カニコウモリとかいう植物だとか。確かに葉っぱはキク科だわ。

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ところどころにキノコ類。
でもちょっと少ない気が。まだ暑すぎるのかな。

・・・というわけで、つらつらゴンドラ駅に戻る。
この日もずいぶん歩いた。蝶も追いかけたし。

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駅に向かう階段でまたもや娘が見つけた蛾。
ナウシカに出てくるテトみたい。かわいい。

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駐車場まで降りてきて、芝生のゲンノショウコはやはり白花でした。

帰って翌日の準備。3年連続になるけれど五色沼自然探勝路をほっつき歩きます。

ではでは、またまた

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2013年8月17日 (土)

高原の風を集める 4 - 憧れのアサギマダラに会ってきた

翌日はデコ平高原(スキー場)にて「アサギマダラ観察会」へ。

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その会場へ向かう途中、ツリフネソウの群落を発見して、思わず車を路肩へ停める。

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やっぱり沢沿いとか水分の多いところが好きなんだな。
どうということないない花だけど、この形はいつもエビか何かを思い起こさせる。


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ゴンドラで山の斜面を登りきると、そこにはほんとうの高原の風が吹いていた。

で、本日のお目当ては「渡りの蝶」といわれるアサギマダラ。
実はゴンドラから見下ろしていたときから、ちらちらと飛んでいるのだ。


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アサギマダラ(Parantica sita)、タテハチョウ科。

渡りをする蝶としてつとに有名・・・
・・・とかなんとかより、何しろ憧れのチョウなのである。

夢に出てくるほどといえば大げさだけれど、図鑑やなんかで見るたびに溜め息、これは本当。
昆虫園か何かで見たことはあるかもしれないけれど、恥ずかしながら野生のものに出会うのはこれがはじめて。
思わず子ども以上にはしゃいでしまう。

なんてキレイなチョウなんだろう。。。


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ヨツバヒヨドリ(Eupatorium chinense var. sachalinense)、キク科。
ふつうのヒヨドリバナや園芸種として流通するフジバカマの仲間。
どうちがうかは知らない(ダメダネー)。

この花の蜜を求めて毎夏このスキー場にやってくる。ということらしい。


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こちらはヤマハハコの群れ。このあたりでやたらと見る。
ヨツバヒヨドリと同じくキク科だけれど、こちらにはなぜかまったく訪れない。不思議。


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一心に蜜を吸うアサギマダラ。

よく見ると、後翅下あたりに黒い斑模様があるのが分かる。これは、性標といい、雄のしるし。
ここのフェロモンに雌が引き寄せられる(ざっくり言うと)。

で、この観察会での目的はただ観察するだけでなく、このアサギマダラちゃんを網で捕まえ、翅にマジックペンで印をつける、という趣旨。
それで、この渡りをするという蝶の行動範囲を調べる。

実際、ここデコ平で捕獲されたアサギマダラが遠く2000kmほども離れた台湾で確認されたという例もあるとか。
ふむー。すごい。見てると、へらへら飛んでてとてもそんな遠くまでいけるとは思えないのだけれど。

で、実際に網で捕ってみる。やり方は簡単。蜜に夢中になり花にとまっているところをそっと補虫網ですくい取ればいい。
参加者全員、子どもはもちろん大人もきゃーきゃーいいながら捕っていた。


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はい捕れた。これは実はマーキング済み。ツメもマーキング済み(笑)。


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で、こんなふうにペンで翅の鱗粉のない白い部分にマーキングする。
「デコ 8/11 HHF-1」。デコ平にて捕獲、8月11日、HHFは捕った人の識別略称とその何頭目か。


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チェックしたら放してやる。何事もなかったようにひらひら飛んでいくアサギマダラ。
正直こんな手荒な真似をして大丈夫なんだろうかと心配になる。
というか、あの憧れのアサギマダラを穢しているような気がしてちょっと気が引ける。


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でもまあ大丈夫そうだ。実際、こうしたチョウが遠くで確認されているわけだし。


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このあたりに群生地のあるピンクのヤナギラン。向うにアサギマダラの図。


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手乗りアサギマダラ。完璧な個体。
これは性標がないのでメス。実は、アサギマダラは雄が9に対して雌は1ほどしかいないらしい。

二時間ほど探し回って、結局9頭のアサギマダラを捕獲、マーキング。
さて、「デコ 8/11 HHF-〇」という印をつけたアサギマダラが、次にどこで見つかるかが楽しみだ。

見かけたらご是非ご連絡を!

オンラインで最新の情報を見ることもできるとか。
詳しくはこちら → 「アサギネット

というわけで、午前中の部はこれで終了。
昼食をとり、またまた例によって午後はこのあたりの自然を堪能します。


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ではでは、またまた

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2013年8月16日 (金)

高原の風を集める 3

一切経山を下り、酸ヶ平から釜沼、姥ヶ原へと抜ける湿原コースへ。
小4の娘も、写真撮るといっては立ち止まる父親にブーブー言いながらもなんとかついてくる。

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高原の風をシャツの下に集めたくなる。

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いやー気持ちいい。

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セリ。

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植栽されたかのようなコバイケイソウ。

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もうそろそろ葉っぱも黄色くなっているものも多い。

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コバイケイソウの群落の手前にネバリノギラン。これも初めて出会う植物。
その間にちらちら咲いているのはミヤマリンドウ。だと思う。

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背の高い植物たちの間で、けなげ。

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ギボウシでしょうか、こんなふうに並んでいる。
自然の庭師のしわざ。

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チングルマ。
花は見たことあったけど、こんなふうに種になっている状態をはじめて見た。
しばし呆ける。

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高原の風。

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湿原といえばこいつ、モウセンゴケ。食虫植物。

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よく見ると小さなハエがくっついている。
水玉みたいになっているのが粘るんだな。

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ウメバチソウ。ぼつぼつ咲いている。
写ってないけど、ハート型の葉っぱもかわいい。

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またごつごつしたところに出たら、ゴゼンタチバナの小さな群落。
花が見たかったけど、終わってた。残念。実ができる途中。

一日中歩きどおしで、車に乗り込むと娘は一瞬で眠りにつく。
僕もそうとう眠い。

宿に向かう途中、がまんできずに仮眠。
起きて散歩したら、そこにはヌマトラノオの群落が広がっていた。

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ではでは、またまた

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2013年8月15日 (木)

高原の風を集める 1

8月10日、仕事をさくっと終えて帰宅、着替えてそのまま娘と車に。
東北道で一路北へ。

 

途中、那須高原のPAでひと休み。折しも低地は連日の炎暑、さすがにちょっとだけ涼しい。

 

夜中、深い霧の中くねくね道をつたって浄土平に到着、途中ほとんど対向車に出会わなかったのにここの大きな駐車場にはたくさんの車。
外を見ると、あちこちに天体望遠鏡。
空を見上げると、小都会ではついぞ見かけることのなくなった満天の星空。
エンジンを切り、そのまま眠りに。

 

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翌日起きたら5時。ちょうど朝日ののぼるところ。

 

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助手席の娘をたたき起こし、さっそく吾妻小富士へ。

 

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振り返るともくもく煙が上がってる。れっきとした活火山の一角で、火山性ガスの匂い。

 

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駆け上がるひと。

 

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階段を登りつめると、思わず息をつめるような光景。噴火口。
一周するのに一時間もかからないというので歩き出す。

 

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ヒメシャジン。うれしい。初めて出会う植物。

 

基本的に岩場で、植物が好んで寄り付かないようなところに、ここだけ何故かオアシスのように昆虫たちの羽音。
この山に登ってくる人たち、だーれもこんな花には興味なさそう。

 

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ほとんど生き物っ気のない場所でここだけハナバチやハナアブのブンブン羽音。クモもいるし、ハサミムシも見た。

 

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ひたすら噴火口周りを一周する砂礫地だけれども、その傾斜地にはこんなふうに一部だけ緑が定着していた。
イタドリやススキの仲間、マルバシモツケ、ツツジ科のなんか。など。
岩や砂がぼろぼろと落ちるだろうに、たくましいね。これなら噴火口に落ちても登ってこられる。

 

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ススキも根を張っている

 

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下ると、駐車場付近にはヤマハハコやイタドリの仲間。メイゲツソウ?

 

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アキノキリンソウに妖精が来てる。

 

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オトギリソウの仲間。イワオトギリかな。

 

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リンドウ。エゾオヤマリンドウ?
気が早いハナバチが来てるなと思ったけど、これですでに開花中ってことらしい。

 

ここまで1時間半。
駐車場に戻ってもまだ早朝。まだお店もやってない。

 

続く。

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2012年8月16日 (木)

ダメダメな山之辺の道探訪 (1)

お盆に奈良の「山之辺の道(やまのべのみち)」を歩きにいってきた。史実に現れるわが国最古の道。
自宅から片道10時間くらいかかるお気楽な車旅。

宿を平城京近辺にとってしまったので、「万葉まほろば線(JR桜井線のことで、腸捻転になるかと心配されるほどよく揺れる)」に乗って奈良から天理、そして桜井へ。
途中「巻向」なる駅があったりして、古代史ファンとしてはドキドキもんなわけです。
説明も不要でしょうが、こここそが古代ヤマト王権の発祥の地、とされているわけです。
でもその風景はいたってのどか、というか端的に言って殺風景きわまりない。

・・・こ、ここが王都???

実はこの前日車でこの近辺をうろうろ走ってみたのですが、
ごくたまに「卑弥呼の里」とかなんとかテキトーな看板があったりするだけで、
とりたてて大々的にショーバイしてやろう感がまるでない。
家があって、田んぼがあって、なんだかよく分からない団地のような建物がぽつぽつあるだけ。

駅だって、ほぼ無人
ここが、すわ「卑弥呼の居館か」というセンセーショナルな見出しで新聞紙上を賑わしたあの纏向なのだろうか・・・。
古代史の足跡を追って夢見心地にぶらぶら歩いてたりすれば、地元の人の奇異の目に晒される始末。
こんなもんなんですねえ・・・。

で、桜井駅よりそぼ降る雨の中とぼとぼ歩くことおよそ20分。
ここが山之辺の道の起点、あるいは終点、海柘榴市(つばいち)。

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看板にもあるように、今から1600から1700年くらい前はここで人びとがいろいろな品物を交易したりしてたんですねえ。
交通の要衝でありかつ、男女の社交の場でもあったわけです。当時はさぞ華やかだったんでしょうねえ。
今は完全に廃れきっていて、往時を偲ばせるものは何も残っていません。
ほんとにここが市場だったの・・・

実際は、「今は」なんてもんじゃなく、5世紀には都は大阪方面に移っており、
すでにそのころには廃れていたようですが。

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海柘榴市から北へ。何の変哲もない町並み。
腰の曲がったおばあちゃんが野菜を持ってうろうろしていたりする。

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やがて山道へさしかかると、こんな風景に出会います。志貴御県坐神社。
磯城県主の祖である饒速日命(ニギハヤヒ)を祀る。
ははん。この辺り一帯が「大和」の枕詞にもなっている「しきしま」なわけね・・・。
てことは

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じゃじゃーん。ありましたありました。
第10代崇神天皇のお宮があったとされる磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)の跡地を示す石碑が。
ここがあの伝説のミマキイリビコが日本全国に(かどうかは不明)号令を発したとされる皇居の跡なわけか。

・・・なんという感慨。・・・にそぐわない風景。

まわりを見回すと、またもや腰の曲がったおばあさんがシャコシャコと落ち葉掃除をしておりました。

実際のお宮は、すぐ南側の今は天理教関連の建物が建っているあたりかと推定されているみたいです。
例の不思議なお経のような声がしておりましたよ。

このミマキイリビコイニエ(記:御眞木入日子印恵、紀:御間城入彦五十瓊殖)さん、
『書紀』の記述を鵜呑みにすれば紀元前97年より同68年まで在位したことにされてますが、もちろんデタラメ
さまざまな研究によりますれば3世紀後半から4世紀初めにかけて活躍された大王で、
御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと、つまり始めて国をお治めになった天皇)なる称号を後の世に贈られております。
つまり、初代神武(イワレビコ)とバッティングするわけで、こうしたことから「二人の初代天皇説」が生まれてくるわけです
(自分的には信じてませんが。何しろ二人の事跡、性格があまりにも違いすぎる)。

私見によれば、ミマキイリビコがいわゆる渾名、イニエが本名かと思われ、
「イリビコ」というのは要するに別の土地からやってきた「入り婿はん」だったのではないのかな。
「ミマキ」ははなはだ興味深くていろいろ言われてますが(ミマはいわゆるミマナ任那、つまり朝鮮半島南部よりやってきた征服者だ説などなど)。今はナゾとしておきます。

ここから北へ数キロほど行ったところに、巨大な行燈山古墳という前方後円墳がありまして、
そこが古事記に記された「山邊道勾之岡上(やまのべのみちのまがりのおかのうえ)」、
つまり山之辺の道のぐにゃりと曲がったあたりの岡の上(まんまじゃん)にあたるのではないかとされ、
いちおう崇神天皇陵に比定されておりますが、
時間と体力の関係でそこまでたどり着けませんでした(ダメじゃん)。
だってかかとに水ぶくれができちゃったんだもん。

しばし古代の大王とその時代に思いを馳せつつ、なーんもない宮跡をひとり後にしたのでした。
続く。

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2011年10月23日 (日)

福島のスケッチ

先々週だったか、福島方面に娘と旅行したのにはワケがある。
この時期わざわざそんなところに子供連れてくなんてと言われたけれど、テレビや親同士の会話なんかで無意識裏に刷り込まれているであろう福島という土地に対する負の先入観を今のうちに変えておいてほしかったから。
そして、もちろん僕自身の先入観も。

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当たり前だけれど福島では福島ナンバーの自動車があふれ、ここと同じように渋滞し、休日のためか店舗には人があふれかえっていた。
車のナンバーをずっと気にしていたけれど、やはり福島ナンバー以外の乗用車を見ることは非常にまれだった。

昼間見た田んぼの稲はあらかた刈り取られていたけれど、収穫した米が世の中に流通できるものかどうか、それは僕にはよく分からない。できたとしても、去年までと同じように市場に歓迎されるかどうか。
ただ、おそらくはこのなんとも屈託のない美しい土地に、すでにいくばくかの汚染物質は静かに沈着して
いるのだろうとの想像が運転疲れのぼんやりとした頭をめぐる。

さすがに浜通りまでは足をのばさなかったけれど、会津のおしゃれなイタリアンレストランでは自慢の福島牛を使用したメニューが堂々と並べられていて頼もしかったし、隣に座った若いカップルは仕事上の他愛ない話を延々と繰り広げていた。
ここでは「日常」を謳歌する素敵な雰囲気がごく自然に漂っているのを感じた。

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宿泊地のペンションのオーナーとも二言三言話をしたけれど、お互いに気兼ねがあるせいか原発事故に関する話題はいっさい出なかった。オーナー夫婦がどういう思いで今も、そしてこれからもこの福島という土地で宿泊施設を経営されてゆくのか、興味がなかったわけではないのだけれど。 

次の日は朝から裏磐梯の五色沼を観光した。福島県の観光地だ、閑古鳥が鳴くかと思われたがあにはからんや、駐車場は車でいっぱい。お年寄りから子どもまで、たくさんの人で溢れていた。
ものすごく嬉しかったし、それはきっとそこにいる誰しもそうだったろう。行きかう人たちとこんにちはを言い合った。

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みんな大地震や原発事故などなかったのだというように湖水のまわりを散策し、カメラを構え、子どもらの嬌声が遠くのほうからこだましてくる。おそらく震災前とまったく変わらぬ風景がそこにはあった。

おそらく、よその国の人からしたら「Fukushima」で今こんなふうにのんびりとした風景が奏でられているのだと信じることは難しいかもしれない。
いや、かく言う自分だってそうだった。

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甚大な被害をもたらした今回の原発の放射能漏れ事故によって福島を離れた人たちが大ぜいいることは聞いているし、それに対して非難がましいことを言える筋合いではまったくないし、僕だってできれば特に子どもたちにはできるだけ安全な場所に避難してくれるに越したことはないと思う。
でもだからといって、その土地にとどまる人たちの重い決断を、軽々に論じたてることは厳に慎むべきだということをすごく感じた。たった2日間の旅だったけれど。

娘は、「ここって福島だよねぇ」と少し不安そうではあったけれど、ほとんど素通りするだけのようなこの土地に、おまえと同じくらいの年ごろの子たちが現に大ぜい暮らしているのだし、そういう場所や人たちに対してほんの少しでも偏見を抱いてはいけないよ、と諭すと静かにうなずいていた。

05
ひっきりなしにおしゃべりする娘に、「しーっ・・・」。
すると、今まで饒舌だったまわりの景色が一斉に静まり、
ぞわ、と風が吹いて何かが鳥のようにいっせいに飛び立った。
背筋が寒くなった


放射能は確かに怖い。目に見えないという点が余計に恐怖心をかき立てもする。
でも、人間どうしがそれを真ん中にして差別したり卑屈になったりする、そのほうがもっと怖いし、いやだ。
僕らはもっと福島に対して自然に手を差し伸べるべきだし、福島の人たちも自分たちのおかれた立場や苦しみ、あるいは何気ない楽しみや喜びを別の場所に住む人たちに発信し続けてほしいのです。

06

うーむ。実際はもっといろんなことを感じたのだったけれど。なんだろう、この隔靴掻痒感。
この件を記事にするにあたり、実際その場で感じたことの半分も文字にすることができないもどかしさをすごく感ます。

ではでは、またまた

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日の一枚

07

その五色沼の散策路にて。
リンゴドクガ、文一の『イモムシハンドブック』の表紙のケムシ。
なんという色彩、ほとんど戦国時代のバサラ者に匹敵する傾(かぶ)
きよう。

娘が見つけた。くやしかった。

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